千葉県内の鉄道の不思議(その2)

 私がまだ小学生の低学年の頃は、国鉄千葉駅も木造でした。現在のように東京方面と直通になっているのは成田・銚子方面だけで、内房・外房方面は文字通り千葉が始発でして、東京から直接内房・外房方面には行くことが出来ません(スイッチバックする必要があった)。現在のJR千葉駅は、それを解決するため1963年に数百メートル東京方面に新設されました。当時国鉄千葉駅のあった場所には、現在千葉市民会館という建物があり、知らない人が見ると妙な所に妙な方向に走る道路(南側に東西に横切る道路とそれに交差する2本の道路)がある交差点に気づくはずです。また、すぐその裏手にはJR東千葉駅と言う、我が家に最も近く極めて小さい駅が(1965年に新設)あります。余談でですが、現在のJR千葉駅付近には機関車区があり、蒸気機関車の転車台や石炭・水を補給する施設や車庫が駅のホームから見えた記憶があります。蒸気機関車も小学生の時までは千葉県内で稼働しておりました。
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 さて緩行線とは各駅停車のことですが、1960年台初頭は千葉県内には特急とか急行は無く、準急というディーゼルカーが走ってました。私の出生地は母の故郷である現在の佐原市なので、準急に乗れば千葉から以遠は佐倉・成田とわずか二駅を経れば佐原に到着する事が出来ました。
 
 「成田線」とは比較的良く聞く線名ではありますし、実際滑走路問題で現在も問題になっている成田空港へJRで行く場合は、成田線へ乗り入れている総武快速か成田エクスプレスに乗ります。しかし、本来の「成田線」とは少々複雑でして(泣)、(1)佐倉?成田?松岸、(2)成田?我孫子、(3)成田?成田空港と、実は三つの路線があるのです。そして(2)の成田?我孫子間(いわゆる「我孫子線」)が本線だったのですが、常磐快速線が乗り入れしているために現在は支線となり、(1)の佐倉?成田?松岸(銚子市)が本線となり、第三セクターとの合同事業で(3)の空港支線が存在し、都合3つのあたかも成田を中心として四方に足を伸ばした格好の路線であります。成田空港へのアクセスとして最も有名なのが「特急・成田エクスプレス」で、終点?は成田空港ですが、東京駅から大宮・高尾および横浜・大船(一部、小田原)へ分割(逆なら連結)して運転されております。
 話を戻すと、いわゆる「総武本線」は千葉以遠の路線を指すわけで、千葉?佐倉?成東?八日市場?銚子の区間のことです。しかし前回解説したように御茶ノ水?千葉間の総武緩行線(各駅停車)と東京?千葉間の総武快速線をも含めた路線が正式の総武本線となります。
 また脱線で恐縮ですが(爆)、話がまたまた複雑なのは、総武快速線は西は横須賀線、東は成田線といわゆる総武本線へ、更に南に内房・外房線とも乗り入れしているのです。一方各駅停車の緩行線も、基本的に三鷹まで直通運転され、朝夕は津田沼?西船橋間を地下鉄東西線も乗り入れしております。
 現在の様に複雑?に変化したのはどうも電化と複(々)線化の影響らしく、佐原を経由する路線は銚子方面ではなく鹿島方面へのアクセス重視に、銚子方面は成東・八日市場経由の、いわゆる総武本線重視に移行したと思われます。佐原駅は直接の分岐駅ではないのですが(実際は次の香取駅で)、佐原?鹿島サッカースタジアム間は鹿島線と呼ばれ、実際は鹿島神宮まで旅客は運行され、鹿島サッカースタジアム間は貨物のみが運行されているそうです。ですから私が子供の頃のようなにぎわいが佐原駅周辺に無くなってしまったのも、そう言う影響もあるのかもしれませんし、佐原始発という今はない懐かしい思い出になってしまいました。
 貨物線のことなので余分なのですが、実は総武本線は新小岩から北に延びる単線が存在します。これは小岩?越中島貨物および金町へ延びる二つの貨物単線であります。国道14号線の新小岩付近を走ると、多数の立体交差に出合いますが、その一つに電化された線路があって、ずっと解けなかった謎がこれだったのです。
 昨晩錦糸町で千葉方面の快速電車を待っていた時、特急で「成東行き」というのを初めて見て驚きました。成東市民の皆様、ごめんなさい!さて、残るは千葉以南と私鉄です。(気の向くままにつづく)

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