11/3ポール・モーリア氏が亡くなった。81歳。
古くは「恋はみずいろ」、一般的には「オリーブの首飾り」で極めて有名である。また、「イージー・リスニング」という言葉を広めた一人でもある。
1970年代、それまで「軽音楽」あるいは「ムード音楽」と呼ばれていたジャンルに「イージー・リスニング」という呼ばれるインストゥルメンタル・ミュージックが登場する。つまり、ボーカルがメインでない音楽が、大きくクローズアップされたのだ。実はそれ以前にも、例えばラテン系のマント・ヴァーニー、パーシー・フェイス、ビリー・ヴォーン、サックスのサム・テーラー、トランペットのニニ・ロッソ、そして映画音楽(実はテレビドラマ主題曲でもなんだが)で有名なヘンリー・マンシーニなど、多くの演奏家は存在した。
しかし「ラヴ・サウンド(ズ)」という振りで、洗練されたヨーロッパの都会風のアレンジで台頭してきた一団があった。それが、ポール・モーリア、レイモン・ルフェーブル、フランク・チャックスフィールド、フランク・プゥルセルらだ。
AMラジオの音楽番組で、ポップスやロックを主体とする洋楽と歌謡曲の番組に二分されていた当時、FMが試験放送からステレオ放送を売りに登場する。AMとの差別をはかるため、クラシックや「ジェットストリーム」のような番組多かったのも特徴であった。特に深夜0時に城達也氏の印象的なナレーションで始まる「ジェットストリーム」は、ボーカルの曲を使わないことが基本だったと聞く。さらにFM東京では、土曜日の午前中にも30分番組だったが、詩の朗読や気の利いたナレーションでイージー・リスニングを流す素敵な番組があった。その雰囲気が好きだった当時高校生であった私は、タイマー留守録でそういう番組を聴きあさったものだ。
話が横道にそれてしまったが、私がそんなイージー・リスニングにのめり込んだきっかけをつくったのが、彼の「ポール・モーリア」であったし、その時の曲が「エーゲ海の真珠」であった。エレキベースやドラムを使ってロックビートを効かせ、女性スキャットやピアノばかりでなくそれまで古典音楽でしか使われなかったチェンバロをちりばめ、ドラマチックな編曲を施したこの曲はまさにポール・モーリアの真骨頂である。
私がポール・モーリアを始めとするイージー・リスニングにのめり込んでいたのは、高校生の頃だった。当時は日本中で人気があったこともあったうえ、なぁんと!千葉市で公演があると判り、喜び勇んでチケットを取り、公演日を待った。まるでデートの日を待ちこがれるように(苦笑)。そう言うときに限って不幸が訪れるもんだ。公演は土曜日だったのだが、朝から発熱があり学校から帰ってきてどんどん具合が悪くなりとうとう起きあがることさえも出来なくなってしまった。結局叔父にチケットを譲り、生ポール・モーリアと生エーゲ海は涙と消えた・・・。そのコンサートに行った同級生によると、レコードとは全く違う編曲であったとのこと。現実とする夢は消えてしまったが、夢のイメージが崩れなかったのは幸運だったかも知れない。ポール・モーリアはその後も何度も日本で公演を行い千葉にも来たが、その「こだわり」もあったのかもしれないが結局私にとっての生ポール・モーリアは実現しなかった。やはりレコードのアレンジが彼の全てであったから。不思議な話だと思われるかも知れないが、レコード(CD)の演奏=アレンジとステージの演奏が同じなのは今や常識だが、当時は異なるケースの方が多かったのだ。だからステージで「レコード(CD)と同じ(演奏)だ」と言うのは、私にとってとても大きな問題なんですよ。
「ラヴ・サウンド」と言う言葉が生まれた1970年代後半、イージー・リスニングのミュージシャンがこぞって日本で曲をヒットさせ、来日公演しレコードを売りまくった。FM東京では「ジェットストリーム」だけでなく、まだマイナーだった小林克也氏の流ちょうな英語のサブナレーションがインパクトのあった「ラヴ・サウンズ・スペシャル」というプログラムも当然私のお気に入りだった。テレビでもほとんど同じタイトルの番組があって、特に衝撃的だったのは同じ「シバの女王」と言う曲をポール・モーリアとレイモン・ルフェ−ブルでクロスさせながら放映したことだった。まさに当時の人気を二分するスターの共演なのだから。当然最初にヒットさせた後者の方に人気があり、ポール・モーリアファンの私もこの曲に関してはルフェーブルのアレンジ方が好きだ。でもアレンジがかなり似ているんだよね、二人とも。
その後ディスコブームで、ポール・モーリアもディスコバージョン「恋はみずいろ」と「エーゲ海の真珠」をヒットさせたが、オリジナルを上回ることは敵わなかった。蛇足だがこの手で成功したのは、パーシー・フェイスの「夏の日の恋'76」だと思う。
最後にポール・モーリアを視られなかった同じ千葉県文化会館で、レコードと違わぬステージの生レーモン・ルフェーブルと生ダニエル・リカーリに感激したことを白状しておこう。それにもかかわらず、私自身における「ポール・モーリア」の「位置」は不動だったのは当然である。