現在、資金も無いくせに妙な事について調べ始め、民生機の限界を感じ始めている。しかし、そんなことは最初からある程度予想が出来ていたことだし、誰もが思いつきそうな事なのに誰もがやっていないことを推測すれば、簡単に実現する事ではないと言うことも見えていた。どんなに「美しく」印刷が出来ようとも、そして品質を維持して大きく印刷できようとも、なだらかな階調を伴ったまま解像度を凝縮したフィルムを、民生用の機材でデジタル化することは容易ではないのだった。
だが民生用の機材の応用で上手く行かないのは、専用の機材ではないからだと言っても、残念ながらそれでもやはり「違う」ものは「違う」ことに変わりがない。そしてそういう教育というか訓練を、私のような者でさえ身につけざるを得ない不幸も(冷汗)、改めて認識するのだ<とほほ。
しかし、それはデジタルの責任かと言えば、そうであるし、そうではない。でも、現状ではアナログに全く追いついていないのも残念ながら事実だ。同じような事はハード自体にも言える。恐らく湯水のように資金と技術を投入すれば、CDからSACDやDVDから次世代HD光ディスクの様にかなりの満足を得られるようになるはずだろう。
私が言いたいのはデジタル化したために、アナログでは目立たなかった問題点が、より明白に表在化した面もあるのではないでしょうか?と言うことだ。例えば、医科のレントゲン写真の診断用に使われているモノクロモニターは、パソコンや家庭で使われているハイビジョンテレビに比較できないほど高細密で高価なことをご存じだろうか。だがそれでもフィルムのそれを凌駕できない現状。だが、そんなフィルムの足下にも及ばないパソコンのモニターで我々は日常の作業をこなしている。
デジタルは、時としてそれを使う当事者を冷酷な評論家となす。様々なデジカメ掲示板やニュースサイトで評価を口にする多くの人たちの、時にしてピクセル等倍で当該画像を評論する有様は、一時期測定器を視聴室に持ち込んだりしたオーディオ評論の様でもある。事実私があれこれ装置を構成していた頃のオーディオ界というのは、音質や音色といった事が最も重要視されていた。けど、もはや好きなように好きな音楽(人によっては単なる「音(波)」かも)を、聴くべき成熟したというか枯れ果てた領域になりつつある。だが、映像はまだまだその領域には達してはおらず、そう言う点でもまだ「つけいられる?<意味不明かも」若い業界のような気がする。